2019.06.05 2nd EP “Body” on FLAKE SOUNDS

94-cd-cover-mockup-1.png
 

Track List

01. Lumen

02. BodyFeel

03. Gum

04. Summer Child

05. Custard

06. Suisei

 
 

Masamichi Kubota - Drums/ Percussion (Support)

Yui Kimijima(Tsubame Studio) - Recording & Mixing
Pete Maher - Mastering

Akihiko Taniguchi - Director (“Gum“Music Video)

 
 
FLAKE独占特典は100mmx100mmのレインボーキラキラシール(画像イメージ)

FLAKE独占特典は100mmx100mmのレインボーキラキラシール(画像イメージ)

 
 
 

Tower Records

Amazon

Disk Union

HMV

Apple Music, Spotify, Google Play, etc.

 
 

LINER

文・んoon Bass 積島直人

“Body”の由来はよく知らない。Vo.JCが持ってきた案でいつのまにかなんとなく決まっていた。意味や由来はあったのかもしれないがJCに限らず、んoonの中では言葉の意図や意味に関して、深く追求も説明もしないのがいつからかのルールになっている。“Body”という言葉を初めて聞いたとき、このEPがなんとなくボディっぽいし、ボディっぽい何かがあってもいいなーくらいの予感がある雰囲気だったことは覚えている。

ちなみにこのように同意とも反対ともないままに物事が進んでいくのはバンドとして良くないような気もするのだけど、なぜだか今のところんoonはうまくいっている。だから、さしあたりんoonにおいて“Body”とは、映画でいうところの「マクガフィン」なのだろう。いや、もっとイメージを限定するなら、映画『パルプ・フィクション』(1994)でギャングのヴィンセント(ジョン・トラボルタ)とジュールス(サミュエル・L・ジャクソン)が「ブツ」と呼ぶアタッシュケースなのだろう。

作中では「ブツ」=アタッシュケースの中身は最後まで明かされない。それが何であるかという暗示もない。映画はシンプルに「ブツ」を巡って、筋や意味のあるようなないような物語の断片が時系列もバラバラに展開されていくだけである。物語中盤には「ブツ」すらよくわからなくなるような気配さえある。んoonにおいても「ブツ」=”Body”を定義することや、その中身を議論するようなことは結局一度も起こらなかった。

シンプルに曲を作り、曲順を考え、アートワークを考え、MVをどうしようかとみんなで考えた。”Body”を巡り、繋がりがあるようなないような、意味がありそうでなさそうな、深読みできそうでできなさそうな、なんとも不思議なものが展開され、最終的に作品として出来上がった。

話は変わるが、昨年あたりから自分たちのことを「ギターレス」と表される文章を幾度か見た。この表現は自分たちが意識していなかった自分たち、そして自分たちの置かれているコンテクストを確認するのにうってつけのコピーだった。んoonにはギターがいない。脱退したわけでもなく、まだ見つかっていないわけでもない。今までも、そしておそらくはこれからもギターはいないのである。一方で、んoonにはギターだけじゃなくビリンバウやトンコリやシタール、バイオリンもいない。こちらも、たぶんこれからもずっと。今んoonがいるコンテクストの中では、シタールやトンコリはともかく「ギター」のいないバンドは「レス」の注釈が必要なほど畸形“Body”に見えるのだという風に理解している。

他方、「レス」とつく言葉は、往々にしてついた言葉への希求が含まれる(と思っている。トップレス、ホームレス、セックスレス、ラブレス…)。んoonはギターの奏法、音域、スター性にいたるまで、みんなで分担し、今日も存在しないギターを代補しながら音楽する。だから、んoonはギターを希求していると同時に、ギターが不要なのである。

ある時「それだとアンサンブルが崩壊するよ」と指摘されたことがある。

言葉の意図を汲み取るよりも先に「崩壊したアンサンブル」という言葉が想起させる未知の響きに、激しく興奮したことを覚えている。んoonでそんな演奏ができたらどれだけ素晴らしいだろうか。

ちなみに、前述の『パルプ・フィクション』では、ヴィンセントが「ブツ」を確認しようとアタッシュケースをパカっと開けると、中からまばゆい光が溢れてくる。咥えタバコであっけにとられているヴィンセントにジュールスは2度「ハッピーか?」と訊ねる。ヴィンセントは少し間を開けて「ハッピーだよ」と答えている。 

 

Lumen

当初この曲は、"VICE"というタイトルでHarp.うえすがデモを作っていた。マッドリブとワンオートリックス・ポイント・ネヴァーを敬愛する彼女は、ハープと紅茶片手に五線譜にペンを走らせるようなことはしない(そもそもハープを片手では持てないし、それだと手が三本ある計算になってしまう)。DAW一択でゴリゴリの変拍子を伴うデモをつくり、我々にぶち込んでくる。それもとびきりの屈託のない透明感のある笑顔で。悪意ある人のヤバさよりも悪意ない人のヤバさの方がケタ違いにヤバい。この後んoon がLumenへと至る意思決定をした経緯は、以下を参照されたし。

→変拍子はまだいいよ

→でもね、アサインしてる音色がバンドに存在する楽器じ ゃないの

→弾く人の人体の構造を著しく無視したフレーズがでて くるじゃないの

→ロボットダンスてさ、人間の身体がロボットのように無 機質にカチカチ動くからすごいよね

→あとさ、ロボットが人間のように滑らかに動くのもすご いよね

→だから人間が人間ぽいフレーズを弾くのが一番すごい よね

→あとやっぱりわかりやすく明るい曲が欲しいよね。

→明るさの単位てルーメンだね

→そうだねルーメンだね…

以上、メンバーはうえすを傷つけることの無いように、水面下で血で血を洗うような止揚と三段論法を駆使し、ボツにボツを重ね、最後に残ったのがこの曲である。「結局どうやってもなんか仄暗いよねえ…うふふ。」と、うえすは笑っていた。後半の男声の英語は台湾遠征時に宿の近くにいた犬の散歩中のおじさんのもの。連れていたヘクターという犬は、その時のうえすの笑顔と同じくらいかわいかった。

Body feel

友人は暗算をする時に指が動く癖があった。要はエアそろばんの事である。んoonも同様に楽器隊のメンバーは、暗算ならぬ暗奏する時は、エアベース、エアハープ、エアキーボードといった具合に指が勝手に動く。マクルーハンぽく言うと楽器=拡張された身体とでも言うのだろうけど、実はこの拡張身体は楽器を持たないVo.JCにも存在する。楽器としての身体を、拡張された身体として再帰的に楽器なき身体へと接続させる。マクルーハンどころかアルトーすら出てきそうな言い方だが、これはどういうことか。そう。とどのつまりエアボーカルである。JCは他の楽器隊メンバーのように暗奏すると指や足ではなく声が動くのである。

我々の連絡用のグループラインには日々色々な情報が恐怖新聞のように飛び込んでくる。ある日突然JCから謎のボイスメモが投稿された。駅の構内を歩きながら録音したであろうその音声は呼吸と歌のギリギリの境界線を彷徨いながら、「あとはずっと一緒…」という謎のメッセージが添えられていた。火サスならば、ダイイングメッセージになってもおかしくないような不穏さである。エアボーカルとエア楽器の違いは記録できる点にある。結局この記録されたエアボーカルは、そのままトラックとして採用されることになった。ライブでしかやらない曲はいくつかあるが、ライブではできない曲というバンド史上初めての貴重なものができた。それはそうと結局、何が「ずっと一緒」だったのだろうか。メンバーは一度もそのことには触れていない。おそらくは、先に触れた「ルール」に則って。

Gum

んoonはメンバー全員で作詞作曲をする。曲は基本的にはBa.積島の手癖のリフと、Harp.うえすの打ち込みデモと、Vo.JCの鼻歌を、Key.江頭のアレンジで彩色するという工程になっている。歌詞はその工程を経た仮曲に、JCが鼻歌の響きから描き起こす場合と、積島があらかじめ作る場合がある。Gumは、鼻歌から歌詞を作るJCの習性を逆に利用し、積島がメロディも譜割りもない状態で歌詞だけを先に作り、そこからどんなメロディおよび曲が出るかを試したものだ。声にすればあまり意味のない(なのに文字を見ないと何かわからない)漢字表記が多いのはそのためである。結局歌詞の文節と、実際の曲のメロディにはズレが起きて、韻律と音律がはみ出し合いながら進行するという面白いことになった(失敗したともいう)。さらに面白かったのは、JCのコーラスワークによる歌詞のスクラップアンドビルドである。ちなみにこの曲に限らずだが、JCはレコーディングで非常に声を重ねる。録音された彼女の声は、モニターする彼女の何かを刺激し、さらに新しいメロディを生み、再度それを録音する。何やらハウリングするかのような工程で作られるポリフォニーの全景は、練習の時にはほとんど明らかにされない。今回そのコーラス部分を含めて歌詞を改めて書き起こしてみると、当初の意図とは全く別のところで、意味と韻律が接続されていたことに気づいた。書きによる言葉、声による言葉、歌による言葉、とでも言うのだろうか。この3つが互いに干渉し循環することで曲ができあがった。またMVは、前作Freewayと同様に映像作家の谷口暁彦氏によるものである。毎度のことながらんoonは彼に全幅の信頼を置いており、一切のディレクションは任せてある。今回、Gumを選んだのは”Body”の全曲の中で、彼の映像と曲の合わさった絵面が最も予想できなかったからである。我々は我々の知らない我々を我々以外の眼差しから常に見たい欲求がある。

Summer child

頭を空っぽにしなければ、行為できない。

千葉雅也『意味がない無意味』より。

Custard

アレンジを主に担当するKey.江頭は「んoon界の鎧塚」の異名を持つ。んoonの大方の曲のメロウで甘い部分は彼の仕事だ。そんな彼が曲を初めて持ってきた。その名もカスタード。甘い、重い、と連呼するバースを主軸に、血糖値の高いぼーっとした塊がひたすらに甘味へのフェティシズムを言祝ぐ。今回江頭は作曲のみならず今回コーラスにも初参戦(中盤の低い男声)した。テンポや曲調ふくめ、これまた今までのんoonにはなかった方向性で、そもそもがふわふわしていたんoonの掴み所をさらに掴みづらくするようなレパートリーの誕生にメンバー一同喜びを禁じ得ない。

Suisei

ライブでは随分長いことやっていた曲で、実は1stのリリースパーティーの時にはすでにできていた。JCの気圧の変化による不定愁訴を、太陽系の水星の配列と紐付けたことによりできた曲らしい。歌詞は、積島が宇宙つながりで宮沢賢治の「春と修羅」から着想した一文をのぞけば、JCのパーソナル頭痛とユニバーサル宇宙を直列で接続した、「セカイ系」ならぬ「ウチュウ系」の言葉が散りばめられている。誤解なきように付け加えると、この曲はスピリチュアリズムを迂回し、キープイットリアルを標榜する我々にとって、「俺らとっくにセカイではなくウチュウを見てるんでよろしく」という宣言なのである。あとんoon史上1番速くうるさいので、演奏すれば身体の不調がすぐわかる曲でもある。ウチュウ標準、んoon 、これからもよろしくどうぞ。

文・ んoon Ba. 積島直人

 
TopnewsYuko Uesu