SELF LINER NOTES

BODY

文・んoon Bass 積島直人

“Body”の由来はよく知らない。Vo.JCが持ってきた案でいつのまにかなんとなく決まっていた。意味や由来はあったのかもしれないがJCに限らず、んoonの中では言葉の意図や意味に関して、深く追求も説明もしないのがいつからかのルールになっている。“Body”という言葉を初めて聞いたとき、このEPがなんとなくボディっぽいし、ボディっぽい何かがあってもいいなーくらいの予感がある雰囲気だったことは覚えている。

ちなみにこのように同意とも反対ともないままに物事が進んでいくのはバンドとして良くないような気もするのだけど、なぜだか今のところんoonはうまくいっている。だから、さしあたりんoonにおいて“Body”とは、映画でいうところの「マクガフィン」なのだろう。いや、もっとイメージを限定するなら、映画『パルプ・フィクション』(1994)でギャングのヴィンセント(ジョン・トラボルタ)とジュールス(サミュエル・L・ジャクソン)が「ブツ」と呼ぶアタッシュケースなのだろう。

作中では「ブツ」=アタッシュケースの中身は最後まで明かされない。それが何であるかという暗示もない。映画はシンプルに「ブツ」を巡って、筋や意味のあるようなないような物語の断片が時系列もバラバラに展開されていくだけである。物語中盤には「ブツ」すらよくわからなくなるような気配さえある。んoonにおいても「ブツ」=”Body”を定義することや、その中身を議論するようなことは結局一度も起こらなかった。

シンプルに曲を作り、曲順を考え、アートワークを考え、MVをどうしようかとみんなで考えた。”Body”を巡り、繋がりがあるようなないような、意味がありそうでなさそうな、深読みできそうでできなさそうな、なんとも不思議なものが展開され、最終的に作品として出来上がった。

話は変わるが、昨年あたりから自分たちのことを「ギターレス」と表される文章を幾度か見た。この表現は自分たちが意識していなかった自分たち、そして自分たちの置かれているコンテクストを確認するのにうってつけのコピーだった。んoonにはギターがいない。脱退したわけでもなく、まだ見つかっていないわけでもない。今までも、そしておそらくはこれからもギターはいないのである。一方で、んoonにはギターだけじゃなくビリンバウやトンコリやシタール、バイオリンもいない。こちらも、たぶんこれからもずっと。今んoonがいるコンテクストの中では、シタールやトンコリはともかく「ギター」のいないバンドは「レス」の注釈が必要なほど畸形“Body”に見えるのだという風に理解している。

他方、「レス」とつく言葉は、往々にしてついた言葉への希求が含まれる(と思っている。トップレス、ホームレス、セックスレス、ラブレス…)。んoonはギターの奏法、音域、スター性にいたるまで、みんなで分担し、今日も存在しないギターを代補しながら音楽する。だから、んoonはギターを希求していると同時に、ギターが不要なのである。

ある時「それだとアンサンブルが崩壊するよ」と指摘されたことがある。

言葉の意図を汲み取るよりも先に「崩壊したアンサンブル」という言葉が想起させる未知の響きに、激しく興奮したことを覚えている。んoonでそんな演奏ができたらどれだけ素晴らしいだろうか。

ちなみに、前述の『パルプ・フィクション』では、ヴィンセントが「ブツ」を確認しようとアタッシュケースをパカっと開けると、中からまばゆい光が溢れてくる。咥えタバコであっけにとられているヴィンセントにジュールスは2度「ハッピーか?」と訊ねる。ヴィンセントは少し間を開けて「ハッピーだよ」と答えている。 

Lumen

当初この曲は、"VICE"というタイトルでHarp.うえすがデモを作っていた。マッドリブとワンオートリックス・ポイント・ネヴァーを敬愛する彼女は、ハープと紅茶片手に五線譜にペンを走らせるようなことはしない(そもそもハープを片手では持てないし、それだと手が三本ある計算になってしまう)。DAW一択でゴリゴリの変拍子を伴うデモをつくり、我々にぶち込んでくる。それもとびきりの屈託のない透明感のある笑顔で。悪意ある人のヤバさよりも悪意ない人のヤバさの方がケタ違いにヤバい。この後んoon がLumenへと至る意思決定をした経緯は、以下を参照されたし。

→変拍子はまだいいよ

→でもね、アサインしてる音色がバンドに存在する楽器じ ゃないの

→弾く人の人体の構造を著しく無視したフレーズがでて くるじゃないの

→ロボットダンスてさ、人間の身体がロボットのように無 機質にカチカチ動くからすごいよね

→あとさ、ロボットが人間のように滑らかに動くのもすご いよね

→だから人間が人間ぽいフレーズを弾くのが一番すごい よね

→あとやっぱりわかりやすく明るい曲が欲しいよね。

→明るさの単位てルーメンだね

→そうだねルーメンだね…

以上、メンバーはうえすを傷つけることの無いように、水面下で血で血を洗うような止揚と三段論法を駆使し、ボツにボツを重ね、最後に残ったのがこの曲である。「結局どうやってもなんか仄暗いよねえ…うふふ。」と、うえすは笑っていた。後半の男声の英語は台湾遠征時に宿の近くにいた犬の散歩中のおじさんのもの。連れていたヘクターという犬は、その時のうえすの笑顔と同じくらいかわいかった。

Body feel

友人は暗算をする時に指が動く癖があった。要はエアそろばんの事である。んoonも同様に楽器隊のメンバーは、暗算ならぬ暗奏する時は、エアベース、エアハープ、エアキーボードといった具合に指が勝手に動く。マクルーハンぽく言うと楽器=拡張された身体とでも言うのだろうけど、実はこの拡張身体は楽器を持たないVo.JCにも存在する。楽器としての身体を、拡張された身体として再帰的に楽器なき身体へと接続させる。マクルーハンどころかアルトーすら出てきそうな言い方だが、これはどういうことか。そう。とどのつまりエアボーカルである。JCは他の楽器隊メンバーのように暗奏すると指や足ではなく声が動くのである。

我々の連絡用のグループラインには日々色々な情報が恐怖新聞のように飛び込んでくる。ある日突然JCから謎のボイスメモが投稿された。駅の構内を歩きながら録音したであろうその音声は呼吸と歌のギリギリの境界線を彷徨いながら、「あとはずっと一緒…」という謎のメッセージが添えられていた。火サスならば、ダイイングメッセージになってもおかしくないような不穏さである。エアボーカルとエア楽器の違いは記録できる点にある。結局この記録されたエアボーカルは、そのままトラックとして採用されることになった。ライブでしかやらない曲はいくつかあるが、ライブではできない曲というバンド史上初めての貴重なものができた。それはそうと結局、何が「ずっと一緒」だったのだろうか。メンバーは一度もそのことには触れていない。おそらくは、先に触れた「ルール」に則って。

Gum

んoonはメンバー全員で作詞作曲をする。曲は基本的にはBa.積島の手癖のリフと、Harp.うえすの打ち込みデモと、Vo.JCの鼻歌を、Key.江頭のアレンジで彩色するという工程になっている。歌詞はその工程を経た仮曲に、JCが鼻歌の響きから描き起こす場合と、積島があらかじめ作る場合がある。Gumは、鼻歌から歌詞を作るJCの習性を逆に利用し、積島がメロディも譜割りもない状態で歌詞だけを先に作り、そこからどんなメロディおよび曲が出るかを試したものだ。声にすればあまり意味のない(なのに文字を見ないと何かわからない)漢字表記が多いのはそのためである。結局歌詞の文節と、実際の曲のメロディにはズレが起きて、韻律と音律がはみ出し合いながら進行するという面白いことになった(失敗したともいう)。さらに面白かったのは、JCのコーラスワークによる歌詞のスクラップアンドビルドである。ちなみにこの曲に限らずだが、JCはレコーディングで非常に声を重ねる。録音された彼女の声は、モニターする彼女の何かを刺激し、さらに新しいメロディを生み、再度それを録音する。何やらハウリングするかのような工程で作られるポリフォニーの全景は、練習の時にはほとんど明らかにされない。今回そのコーラス部分を含めて歌詞を改めて書き起こしてみると、当初の意図とは全く別のところで、意味と韻律が接続されていたことに気づいた。書きによる言葉、声による言葉、歌による言葉、とでも言うのだろうか。この3つが互いに干渉し循環することで曲ができあがった。またMVは、前作Freewayと同様に映像作家の谷口暁彦氏によるものである。毎度のことながらんoonは彼に全幅の信頼を置いており、一切のディレクションは任せてある。今回、Gumを選んだのは”Body”の全曲の中で、彼の映像と曲の合わさった絵面が最も予想できなかったからである。我々は我々の知らない我々を我々以外の眼差しから常に見たい欲求がある。

Summer child

頭を空っぽにしなければ、行為できない。

千葉雅也『意味がない無意味』より。

Custard

アレンジを主に担当するKey.江頭は「んoon界の鎧塚」の異名を持つ。んoonの大方の曲のメロウで甘い部分は彼の仕事だ。そんな彼が曲を初めて持ってきた。その名もカスタード。甘い、重い、と連呼するバースを主軸に、血糖値の高いぼーっとした塊がひたすらに甘味へのフェティシズムを言祝ぐ。今回江頭は作曲のみならず今回コーラスにも初参戦(中盤の低い男声)した。テンポや曲調ふくめ、これまた今までのんoonにはなかった方向性で、そもそもがふわふわしていたんoonの掴み所をさらに掴みづらくするようなレパートリーの誕生にメンバー一同喜びを禁じ得ない。

Suisei

ライブでは随分長いことやっていた曲で、実は1stのリリースパーティーの時にはすでにできていた。JCの気圧の変化による不定愁訴を、太陽系の水星の配列と紐付けたことによりできた曲らしい。歌詞は、積島が宇宙つながりで宮沢賢治の「春と修羅」から着想した一文をのぞけば、JCのパーソナル頭痛とユニバーサル宇宙を直列で接続した、「セカイ系」ならぬ「ウチュウ系」の言葉が散りばめられている。誤解なきように付け加えると、この曲はスピリチュアリズムを迂回し、キープイットリアルを標榜する我々にとって、「俺らとっくにセカイではなくウチュウを見てるんでよろしく」という宣言なのである。あとんoon史上1番速くうるさいので、演奏すれば身体の不調がすぐわかる曲でもある。ウチュウ標準、んoon 、これからもよろしくどうぞ。

文・ んoon Ba. 積島直人


hoajao

眼球(のような耳)譚

文・んoon Bass 積島直人

(注:本文で「我々」としているものはどれも大体積島個人のことでもあるので、他のメンバーがそう思っているかどうかは保証しかねます。というか思ってない。)

「ん」は「ふ」であり、"h"であり、象り(ハープ)である。(=道ではなく、真理ではなく、命でもない)
表音-表意-表象を右往左往し、「んおーん」とか「ぬーん」とか、どうにでも読めてしまう我々は、名前と同様に自分たちの音楽もどう読まれても一向に構わないし気にしない。「読まれること」に無関心な我々の目下の関心ごとは、「どう眼差されるか」である。んoonのレイテストナンバーである『GUM』のライナーで私は以下のように書いた。


「我々は我々の知らない我々を我々以外の眼差しから常に見たい欲求がある。」


これは詳らかに言ってしまえば精神分析家ラカンの「鏡像段階」のことで、自分たちが何者かを定義する気のない我々は殊更にその輪郭を他者の眼差しから(ある意味で無責任に)立像しようとしているというだけの話である。

  そして現時点で「我々以外の眼差し」とは、んoonのMVを手がける映像作家の谷口暁彦と、んoonのライブやポートレートをとる写真家/画家の宮下夏子のことである。彼、彼女らの「眼」を通した作品はんoonの聴覚中心主義的な感性にいつも揺さぶりをかけ、我々に新たな発想(というより受想と言ったほうが正しいかもしれない)をもたらしてくれる。

  谷口は高校の頃、自身のネタ帳に「倍率○○○○の双眼鏡で地球一周した自分の後頭部を見る」と走り書きをしていた。当時流行った「見えないものを見ようとして」覗き込む望遠鏡というメタファーより、はるかに現実主義的なその想像力に私は嫉妬しながら爆笑した。

  宮下は二十歳の頃、親と喧嘩し夜の公園でたたずんでいるところタヌキの親子を発見する。親との喧嘩でざわついた心を慰めようと、おもむろに「眼」を両手で覆いダルマさん転んだを行いはじめる。数分後、なんと子ダヌキは宮下の背中に乗った(らしい)。「眼」を覆えば動物の警戒心が霧散するということは、宮下の「眼」以外の肉体は、ほぼ岩や草木といった自然物ということである(あらない)。

こんなエピソードはさておき(※こういうエピソードにいちいち事実かどうかと裏をとろうとする輩には、「ノリメタンゲレ」と心中で唱えるようにするとささくれた気持ちがまろやかになる。)ここで強調したいのは、我々にとって谷口、宮下の「眼」は、我々がどう逆立ちしても持ちえないものということである。彼らの「眼」から生み出される作品は、無毒の猛毒というべきか、毒が「裏返ったァァ!」(烈海王)というべきか、とにかく半端な露悪趣味は到底太刀打ちできないのである。


などと、んoonにまつわる眼差しの話はさておいて…


今回我々初のリミックスEP『Hoajao』は、谷口、宮下の「眼球」のような「耳」を持つ人たちにんoonの「眼差される欲求」をぶつけて出来上がった作品である。「我々が見たことのない我々」ならぬ「我々が聞いたことのない我々」が聞きたかったのだ。

依頼したリミキサーは4名。全員んoonが心から尊敬し嫉妬する「耳」を持っている。

  デイデラスのメタフィジカリティ、DJ MAYAKUの汎エスノ志向、KΣITOの人力手動グラニュラーシンセシス、u★seiの映画的脱構築は、んoonの原曲のグルーヴの時制と、全く異なる世界線の時制を、交わることなく並存させていて、それがあり得た未来なのか、すでに出来なかった過去の分岐なのか、とにかく色々な思いが錯綜し、魂が動揺してしまう。これはリンゴではない、これはパイプではない、でもんoonではないのかはわからない。是非聞いてみてほしい。


ORANGE

ねこ、この未知なるもの

文・んoon Bass 積島直人




 んoonがバンドとして明らかに変わったのは、2016年のことだ。その頃、んoonにはVoのJCが加入し、インストバンドからVo編成のバンドになった時期でもあるのだが、そもそもバンドというコレクティヴは、人間と喜怒哀楽とが集合離散を繰り返す業の深いものなので、JCの加入自体はバンド史にとってさして重要なことではない。重要なこと、それは私がワラビとソテツという二匹の猫と共生を始めたことである。

 この人語を話さない二匹の生きものと、ムツゴロウの影響下にある私は、互いに舐め合い、嗅ぎ合い、全存在を賭けて愛撫しあう。彼らもまた彼らなりに、あの手この手で私に何かを伝えようとしてくる(ように見える)。恍惚も興奮も拒絶も諦めも入り混じったような彼らの反応は、傍から見れば大変に愛らしく、不気味で、滑稽で、奇妙なものだろう。この行為の中では何がやり取りされているのだろうか。私の愛情が伝わっているのか、彼らがその愛情に何をどう思って応えているのか、実際のところは何もわからないし確かめようが無い。私は、彼らの振る舞いから何かを読み取り、自分の中でナラティブとして解釈し、自分が肚落ちするように、都合よく感じ取るのだが、そこに彼らへの確認や承認といったプロセスは存在しない。

 わからないことのわからなさは、わからないまま、くっつくこともはなれることもせず、寄る辺なく佇んでいる。そんな未知なる体験は、んoonにおいて音楽を作ることのみならず、現在に至るまでメンバーと時間を共にすることにおいて非常に重要だった(ように思えている)のだ。

 かくして私は、猫との共生を機に、誰かに何かを納得いくまで説明する(させる)ことを目にみえてしなくなった。誰かと一緒に生きることや、何かをすることに、理解とか納得は必ずしも必要ではないのだと思えるようになった。その途端、それまで意味がわからず頭を抱えていたメンバーの話を、猫が外を見ながら鳴く声のように聞くことができるようになった。わかりたいと思って抱えていたジレンマは、わかろうとも納得しようとも思わない微笑へと形を変えた。

「あたしぃー天国にはァァ秩序があるとぉぉーおもうんですぅぅぅ」

と、毎度アルコールに侵された脳から自論を展開するユウコ(harp)の弛緩しきった発想にも、

「今集中してるから黙ってて!」と教習所の教官の口を塞ぐJC(Vo)の修羅の圧力にも、

首を鳴らして頭の血管が破れ、ICUで手術を施され、麻酔から覚めるや否や、「今週の練習ちょっと遅れるかも」とラインをしてくる江頭(key)の世界把握の仕方にも(どれも全く意味がわからず理解できなかったことなのだが)、私は少しだけ口角を上げて最大限の優しい眼差しで微笑みを贈った。するとどうだろう。それからというもの、んoonはなんだか色々がうまくなっていった。

 そんなある日、いつもの通り人語を話すわけわからない生きもの相手のバンド練習が終わり、家に帰って今度は人語を話さない生きものを相手にじゃれていた。どちらも大して変わりはしないが、あまりに笑みがあふれていたのだろう。パートナーが何気なく、その光景を写真に撮ってくれた。その写真を見て、私は衝撃をうける。写真に映る私の微笑みは、私が「スピッツの歌詞のフロイト的解釈」や、「メルツバウの音量とバタイユ的蕩尽」の話をする時に、私に向けられるメンバーの微笑みと全く同じだったのだ。

 私は『寄生獣』の田村玲子のように「ああ、そうか」とだけ思った。

 私が猫と暮らして得たこの感覚は、メンバーはすでに持っていたものだった。私にとってのワラビとソテツは、メンバーにとっては私であった。つまり私はワラビとソテツで、メンバーは私で、ワラビとソテツはメンバーなのだ。(多分あってる。)

 2020年は例年に比べ、世の中全般が割とわけのわからないことだらけだったように思えるが、我々は、それなりに色々な活動をすることができた。音源も少なからずリリースし、演奏も少なからず行い、楽曲の提供という新しい機会にも少なからず恵まれた。これもひとえに、私が猫という未知なるものとの出会いを経て得た感覚、そしてそれよりずっと前から私という未知なるものを微笑みで完全放置していたメンバーとの潮汐、つまりは「そもそもわけのわからないものとの付き合い方」に慣れたバンドであったことが、非常に奏功したのだと思っている。所詮、私も他のメンバーも、ワラビとソテツと同じである以上、説明できることや理解できることは限られているし、恐らくはかなり少ない。つまり、んoonが何かの事象に対応出来ることは相当少ない。いや、ほぼない。(たとえ、いよいよ人間が剥き出されたとしても。)

 その上で、んoonはこれから出会うわけのわからないものや、わけのわからない人のわけのわからなさと、どのように寄り添っていけるのだろうかと胸を躍らせている。そんなことはさておきながら、今年も、そしてこれからも、さらなるわけのわからなさと出会えますように。


JARGON

Jargonとわたし

文・んoon Bass 積島直人



気がついたら前作より2年以上経っていた。

一旦、世相とか時勢の色々はおいといて、んoon界隈では相も変わらず言語ゲーム的なやりとりが続いていた。

「言葉が通じるのに話が通じない」(by藤子・F・不二雄短編集『ミノタウロスの皿』より)

という奇妙なもどかしさと、メンバー間の話の確認や説明責任の放棄は、前作から2年経った今もんoonを結えるメインのコミュニケーション装置である。

つくづく進歩とか成長とかに縁がないバンドだなと思う反面、「10年経っても何もできない、いつまでも何もできない」というフィッシュマンズの言葉は、文字面は変わらないままに、新たな発見の触媒として、自分に呪詛のように生き続けている。

何が言いたいかというと、今作『Jargon』は前進と後退といった進歩史観的なものではなく、右往左往の横の振幅、全振りの幅が以前より格段に拡がった作品いうことである。

GodotやGreenなど、数年前から地縛霊の様にふわふわと佇んでいた曲もあれば、LobbyやKubaなどギャハギャハみんなで爆笑しながら数分で固まった曲もある。

こういう時間の掛け方の不均衡を見ると、やはりバンドとして成長したのではなく、振り切れ具合とか感覚のぶっ壊れ具合の幅が増した結果だと強く思うのだ。今作は全体を通してJCはライブでの再現性をほとんど放棄した。音響彫刻のように声を重ねて倍音を構築している。映画「マルコビッチの穴」のジャケ写を思い出していただければその狂気ぷりもイメージしやすいだろう。

ゆうこは、(多分情熱大陸とかでYOSHIKIの回を見たからだろう)自分の演奏よりもトータルのミックスバランスや構成に積極的に口を出す様になった。特にエンジニアであるツバメスタジオ君島さんに。「注文が2点あります」といいながら、2点以上内包した注文をしているあたりに、彼女のプロ意識と、数の数え方の違いをまざまざと感じた。

えがしらは、「遊び」の部分が多くなった。

(補足すると、えがしらはリハとかセッションの時に遊びで何気なく弾くフレーズがヨダレがでるほど極上なのに、やれ曲が固まりつつあるといつの間にか弾かなくなるという妙な癖がある。他のメンバーが濃いからだろうけども、んoonの甘味の大部分はこの「遊び」なのだ。ちなみにバンド内では、えがしらはコードネーム"ジャコウネコ"と呼ばれていて、その由来は本人がうんこと思っていても、人間からすれば極上最高級のコーヒー豆であることに由来する。)

そして自分はといえばついにベースの音域と役割を完全に放棄することができた。(M6 Sniffin')

ベースラインはジャコウネコえがしらに託し、コードはハープに任せ、ひたすらにJCの声にまとわりつく虫の羽音のようにベースを弾いた。

ざっと上げればこんなとこであるが、このように私がベースの役割を、そして んoon全員が各自の役割を放棄すればするほどに、んoonは「バンド」ではなく、より広義の「音楽」として聴かれていくのではないかと思っている。

Photo by Natsuko Miyashita @natsucosmo



1. Lobby(feat. valknee)

この2年で、JCのITリテラシーが進み、以前はボイスメモで作成していたアカペラのデモはいつの間にやらリズムトラックがつくようになっていた。そんな折に少し気恥ずかしそうに持ってきたデモはブリトニー・スピアーズが並行宇宙で健全にキャリアを積みましたと言わんばかりのデモだった。JC以外の楽器隊は爆笑しながら楽器隊はノリノリで音を重ねていった。みんな普段使わないようなブリブリとした音を選び、ふざけすぎた恋のように狂乱が進んでいった。

「そうなるとラップだよね?」

と、誰ともなく言葉を発していた。どうなるとラップだったのかはよくわからないが、すでにJCは偽valknee風のフローを乗せてライムしていた。そしてそのままのテンションで直接面識がなかった本家valkneeにメールを送り、今回の曲は出来上がった。嘘のようなほんとの話である。

valkneeとはデモのトラックを数回交換し合いリリックを書いてもらった。こちらから特にイメージや指示などは出さず、valkneeの野生の思考をそのまま出してもらうことを心がけた。

事件が起こったのはレコーディング当日である。順調にvalkneeパートが録音されている中で、JCが語りとか喋りのパートが欲しいと言い始めた。(普段私には「喋りすぎ!」と言うのに。)

それを受け、valkneeは、

「ギャル中学生が学校生活の愚痴を言いながら、外国語表記のせいでエビであること以外がわからない料理を食すおじさんを時折憑依させ、建物に立て篭もりゾンビから切り抜け食料を得るために火を探すがアイコスしかない」という弛緩したイメージのコラージュを語りあげた。

当然我々は腹筋がちぎれるほど笑った。valkneeのラップも、彼女の語りも、JCのボーカルも、どれもイメージは共有しないままに、ただトラックの上で同直線上にある。そんなレコーディングのモニター画面を見た時になんとなく素敵な曲になるなという確信が生まれたのだった。

こうして完成した楽曲を今度は んoonのMVでお馴染みの映像作家谷口暁彦へと展開した。こちらもまた前作からさらに輪をかけて、見るものの言語中枢をフリーズさせるような出来栄えだった。

ひ、どうぶつ、たべもの、ばくはつ、まちはかい

(土井善晴先生のツイート風に)



2.Godot

まだJCが加入する前、ウエスユウコが全パートを打ち込んでデモを作ってきた。当時面白いなと思ったのは、ベースや他の楽器を弾けないウエスユウコがベースやドラム、キーボードのフレーズを一音一句指定してきたことだった。音の跳躍の仕方や区切り方などが著しくベースの手癖や感覚と合わない。なるほどハープに限らず別の楽器の奏者はこうやって自分とは違う身体知で音の世界を把握しているのかと思ったものである。かつて他者の視覚をカメラ経由でゴーグルに投影するという「視聴覚交換マシン」というアート作品があったが、なんとなくそれに近い。後日この体験から、自分もいくつかベースで作ったフレーズをハープで弾いてもらおうとしたが、やんわりと却下された。そんなすれ違いからこんな素晴らしい曲が生まれるのだから、これからも、んoonはすれ違う事をやめてはならない。



3.Green

電波を受信することに興味があった時期がJCにあり、それらしい言葉をJCと自分で暗喩直喩織り交ぜて当てはめて歌詞を作った。メンバーの各楽器の音色はなんとなく浮世離れしたようなものを象れればいいなというイメージがあった。特に後半部分、電波や電磁波を抽象化したようなシンセ音とそれに応答するかのようなJCの「叫び声」は遠く遠くにまで届きそうな直進性がある。楽曲を録り終え、メンバーが想像した情景を共有すると、それぞれ面白いくらい違うものだった。

「だよねー!わかるー!」という意味で「えー自分と全然違うわ!」という言葉が飛び交っていた。



4.Orange

2020年に色々と予定してたことがなくなり、その間にできた曲。色々と出来事、やりとりがありつつ、それをあまり直接的な言葉にしない(出来ない)のが んoonの特徴の一つなのだが、時間をおいて曲を聴くと、当時思っていたことがあまり立ち上がってこない。歌詞の「甘いキス」てなんだったっけなーなどと10年後もふんわり思い出してるんではなかろうか。ちなみにこの曲は特に江頭のスウィートニング職人としての仕事ぶりが発揮されていて、他の曲との振れ幅の広さの要因の一つとなっている。



5.Kuba

んoon史上一番長い曲となったこの曲は、ハープ、ベース、キーボードのパートが消失したものになった。経緯や要因は説明出来そうで出来ない。なんとなく色々意見を取り入れたらこうなっていた。いっぱい打楽器かな、あと管楽器かな、トランペットかな、幾何学模様のGoさんかな、と並べてみても意味がよくわからないが、タイミングとかご縁とかそういう概念で微笑ましく眺めていただきたい。ライブではバリバリ演奏していく所存です。



6.Sniffin'

キーボードがベースラインを弾き、ハープが存分に歌い、ベースがアホみたいに荒れ狂う振り切れた曲。Lobby製作時もそうなのだが、鳴らしてみて、みんなが爆笑する瞬間というのが昔からあって、この曲にもそれがあった。VOとコーラスはJCが全て重ねて作るのだが、快楽ドバドバで、死に際3分前まで鼻歌をしそうなのコーラスラインと、禁欲的な音飛びを繰り返すメロディラインの落差が非常に激しい。おそらく歌詞の有無に左右されているのだろうが、その倒錯が1人の声から全て構築されているところに妙な切なさを感じている。元ネタというべきか、タイトル自体は数年前から存在していた曲で今回まさかの急浮上でひとつの曲にまとめ上げられた。この曲に限らず、色んな没ネタが何かのタイミングでバチッとハマるようなことがこれからもあるといいなと思っている。

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